好評連載中の「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」のシンポジウム「理想の社会を求めて」レポート。
第3話ではユートピア戦略を4つのカテゴリに分け、具体的なアーティスト例を交えての考えが語られました。
『the Utopia Reader』の中で、ユートピア戦略のいくつかのカテゴリーが大雑把ですが説明されています。この類型論が役に立つかどうか確信は持てませんが、いま現代アートで行われている様々なユートピア戦略にはそれぞれ異なる点があることは確かです。まず「ユートピア・アヴァンギャルド」という言い方があります。このカテゴリーに入るアーティストのユートピア概念は、革命を通して政治とアートの繋がりが強かった20世紀のアヴァンギャルドのアーティストのユートピア戦略を根拠にしているか、あるいは自ら意識してそれに復帰した人たちの考え方です。トーマス・ヒルシュホーンのようなアーティストは、革命的アートに対する願望を幾分保持している人たちの典型でしょう。コンスタント・ニーウウェンハイスとギー=エルネスト・ドウボールもこうしたユートピア作家でした。彼らのユートピアへの衝動は、アートと政治を革命プロジェクトの中にすべて統合することによって表現されています。コンスタントは「20世紀の真に創造的活動はすべて革命に根差すべきだ」と述べています。しかし21世紀になると、少なくとも西洋では、革命の可能性、中でもマルクス主義革命の可能性をまだ信じている人は殆どいません。従って、20世紀の前衛派と人々との関係は、それを再び復活させるとか息を吹き返させるというよりは、インスピレーションの源泉として、あるいは研究対象として現れてきます。
Thomas Hirschhorn
《Spinoza-Car》
フレンチ・ウィンドウ展 展示風景
2009
Collection of the Artist
Courtesy: ARNDT, Berlin
Photo: Watanabe Osamu
Photo Courtesy: Mori Art Museum
©ADAGP, Paris & SPDA, Tokyo, 2011
イ・ブルを含む多くの現代のアーティストは、20世紀初頭からのこの革命的ユートピアの時代やユートピア的感性に復帰していきました。これはポーランドのアーティスト、ゴシュカ・マキュガの作品ですが、彼女は2006年にマレーヴィチをもとにした作品を英国の展覧会に出しています。マーク・ティッチナーというアーティストは革命的ポスターに関心があり、それを彼の作品のより所としています。こうしたアーティストはかなりたくさんいますが、この点に関して言えば、イ・ブルがブルーノ・タウトやウラジーミル・タトリンなどに興味を持ったのは、かつてアーティストたちがアートは多かれ少なかれ変化を引き起こす革命プロジェクトと結びつくと信じていた時代の状況を知りたいという意図があったのではないでしょうか。この問題についてはまた後で触れたいと思います。
リチャード・ノーブル氏
撮影:御厨慎一郎
私が研究して識別したユートピアン・アートの第2のカテゴリーは「セラピーとしてのユートピア」です。これは癒しやアート自体のセラピー的効能に焦点を合わせたユートピアの考え方です。この様式のアーティストはある意味でヨーゼフ・ボイスにならい、アートの可能性が人間の生活や性格や存在そのものをより良くするとしてユートピアを主張していると私は考えています。よく知られていることですが、ボイスは、人は皆アーティストであるべきで、アートは戦後に起きた深刻な政治的分裂から私たちを救ってくれると語っています。この思想、すなわちアートは私たちにとっていいものだという考え方に基づいて活気ある作品を制作しているアーティストは大勢います。アートが私たちにとって良いという考え方がどうして生まれるかと言えば、第1にアートは創造的活動であり、その行為自体に価値があると考えるからで、自由な創造的労働に従事することで人間としての可能性を自覚できるからです。
「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」展示風景
撮影:渡邉修
このように考えると、アートは私たちを何であれ抑圧から解放してくれるものなのです。がいして抑圧とは、資本主義社会の中で人間が容赦なく心に傷を負うほどに道具として扱われ競争にさらされることを意味しています。反復や退屈、いつも幸せになろうと計画したりするのとは反対に、アートは私たちの生きる手段の選択肢として、すなわち創造的で開放的な選択肢として考えられます。アントニー・ゴームリーの《アジアン・フィールド》のような作品では、広州の人々が何千もの小さな粘土像を作ってこの巨大な作品を共同制作しています。参加者一人一人が基本的には同じ指示を受け、粘土像は大体手の大きさと決められています。ところが、出来上がったものは様々でそれを作った各個人を映し出し、参加したすべての人たちがその作品に功績を残しています。さて、これを経験したことで人々の生活が変容したことをゴームリーはもとより誰も示唆していませんが、アートが民主主義的な活動となり得るということ、皆が参加できて自分たちを向上させてくれる活動だということです。他の例では、イリヤ/エミリア・カバコフの《プロジェクトの宮殿》や1984年に英国で起きた鉱夫のストライキを再現したジェレミー・デラーの《オーグリーブの戦い》があります。デラーの作品には実際にストライキに加わった鉱夫や警察官たちが出てきますが、彼らは再現された作品の中では反対の役柄を演じています。アートには、2つに分裂した集団が多少なりとも和解するプロセスをもたらすといった一種のセラピー効果があるという考え方です。
アントニー・ゴームリー《アジアン・フィールド》
Sydney Biennale 2006 展示風景
私が識別したユートピアン・アートの第3のカテゴリーを「批評的ユートピアニズム」と呼ぶことにします。これは私が前に説明したユートピアのネガティブな面を強調している作品です。これにはダン・グラハムの《ホームズ・フォー・アメリカ》が該当すると思います。これは1960年代に北米で失敗した都市部の拡張というユートピア的大事業を取りあげています。そこでは中流階級や労働者階級の人たちのために建てられた庭付きの新しい家、すなわち手工業や個別化を犠牲にしながら大量生産された同じものがずっと並んでいます。しかしこの種の作品はしばしばディストピア(暗黒郷)に踏み込んでしまいます。ニルス・ノーマンの都市計画に関する作品には、威圧的な感じのする建築物や都市計画をユーモラスに見ているものがよくあります。ポール・マッカーシーのアメリカン・ドリームについての考察では、アメリカの文化的な無自覚さを深く、不快なほどに追及しています。しかしそれはまたアメリカ人が自分たちの社会を理想化しようとする意識を混乱させる試みでもあります。現代美術における批評的ユートピアニズムは、ユートピアニズムの失敗、あるいは社会レベルさらには個人レベルでの私たちの計画や目的が失敗したことをモデル化するアートと言えます。政治的アートを制作したいと思っているアーティストにとって、これは成功を呼ぶ戦略だと思います。
<関連リンク>
・ユートピアを求めるアーティストたち
第1回 なぜ「ユートピア」に惹かれ、「ユートピア」を目指すのか
第2回 ユートピア作品は社会の欠陥を写す鏡
第3回 4つのユートピア戦略と多様なユートピアンアーティスト
第4回 イ・ブルの批評的なユートピア作品
・「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」
会期:2012年2月4日(土)~5月27日(日)
・設営風景「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(flickr)
・「イ・ブル展」アーティストトーク2012/2/4(flickr)
・展示風景「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(flickr)
・「イ・ブル展」はこうしてつくられた!
普段見られない舞台裏に潜入したフォトレポートをご紹介します。(Blog)
・松井冬子×片岡真実 「イ・ブル展」MAMCナイト対談ギャラリートーク
第1回 松井冬子さんとイ・ブルの共通点、作品に込められた「不安・恐怖・痛み」
第2回 彫刻家と画家の違い、〜制作のスタンス・大事にする感覚・進め方
第3回 松井冬子の「死」、イ・ブルの「ユートピア」
第4回 説明無しでも強烈なエネルギーを発する作品
第5回 社会に対するパンクな精神に共感する