2012年2月5日(日)に開催したシンポジウム「理想の社会を求めて」。森美術館で個展を開いていたイ・ブルのサイボーグ・シリーズについて、サイボーグ論研究者の高橋透氏(早稲田大学 文化構想学部教授)を招いての講演を行いました。
究極の身体とも言うべきサイボーグ技術をとおして未来社会を見据えるサイボーグ研究者の目から分析し、そのイ・ブル作品の向こうに見えてきたものとは何か。3話に分けてお届けします。
私が現在、関心を持っている分野は先端テクノロジー、特にサイボーグ技術についての哲学です。また、森美術館側から私に課された課題は、サイボーグ論とのかかわりでイ・ブルの作品を解釈することです。したがって、本日はイ・ブルの作品のうちでも、特に「サイボーグ・シリーズ」に焦点を合わせてお話をしたいと思います。
展覧会設営中のイ・ブル。奥にはサイボーグ・シリーズの作品が見える
撮影:御厨慎一郎
「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」展示風景
撮影:渡邉修
サイボーグというとSFの世界に登場する人間と機械の混交体をイメージする方が多いと思います。しかし、すでにご存知の方も多いかもしれませんが、脳とコンピュータをつないで、頭の中で考えただけで周辺のデバイスを操作することができるというテクノロジー、つまりブレイン・マシン・インターフェイス、BMIというふうに言いますけれど、このような技術がすでに登場しています。本格的なBMIは、コンピュータと脳神経細胞をダイレクトに接続するものなのですが、脳波を利用する簡易版は、すでにゲームソフトとしても市販されています。私もこの簡易版を試してみましたけれども、頭で考えただけでパソコン画面内のカーソルやアイコンを動かすことができるのは不思議な気持ちでした。このように人間と機械の接続はすでにSFではなくなりつつあるということがおわかりいただけると思います。人間と機械の接続、ダナ・ハラウェイは1980年代に「サイボーグ宣言」というテキストでサイボーグを「有機体と期待の混交」(*1)と定義し、これからはサイボーグ的なあり方が焦眉の問題となるであろうと語りましたが、そうした世界が次第に現実のものとなりつつあるのです。
サイボーグ論研究者の高橋透氏(早稲田大学 文化構想学部教授)
撮影:御厨慎一郎
さらにバイオテクノロジーの領域に目を転じてみましょう。2007年に京都大学教授の山中伸弥がiPS細胞(*2)を作出したことは記憶に新しいと思います。iPS細胞はご存知のように、体細胞を初期化していわゆる「万能細胞」化し、望みの細胞へと、ひいては望みの臓器へと展開させることを目論むテクノロジーです。現在特定の機能がプラグラミングされている細胞を白紙の状態に戻し、リプログラミングして新たな機能を与えようというわけです。ここから、細胞は大きな柔軟性ないしは可変性を持っているということがわかると思います。
さて、iPS細胞を使用した治療実験例に鎌状赤血球貧血の治療(*3)というのがあります。この実験ではマウスの鎌状赤血球をiPS細胞で再現したのちに、今度は鎌状赤血球を発現させる遺伝子を正常な遺伝子に組み替えることで治療を行いました。マウスの病状は大幅に改善されたといいます。この治療法は今後、人間にも適用されていくのでしょう。こうした治療実験から見えてくることは以下の点です。まず、このような治療方法を通じてテクノロジーが人間の体内に侵入してくることになるということ、そして、こうした類の治療方法が今後進展するならば、それにつれて人体は侵入してくるさまざまなテクノロジーによって、ますます構成されていくであろうということ、さらには、先ほど指摘した細胞の有する柔軟性ないし可変性は、当該の治療における遺伝子組み換え技術の実践と組み合わされることで、さらに拡大、拡充されるということであります。
この最後の点ですけれども、鎌状赤血球の治療実験の際に導入された遺伝子組み換え技術は、病気の状態を健康な状態へと戻すことに焦点が当てられていますが、場合によってはさらに健康な状態を目指すために遺伝子改変を行うということも考えられるでしょう。いわゆる能力増強、エンハンスメントです。エンハンスメントには多くの議論があります。しかし、どうせ病気を治療するのであれば、今後病気になりにくい状態を目指して、要するに予防という観点から、より健康な、より強い状態を実現するために遺伝子を能力増強する形で、つまりエンハンスメントという形で組み換えるという試みが提起されたとしても不思議ではないのではないでしょうか。確かにエンハンスメントについては慎重な議論と対策が必要であることに異論はありません。しかし、予防という観点からのエンハンスメントが、いったん病気になってからの治療に比べてコスト的に安価で済むといったケースがあるならば、エンハンスメントを全面的に禁止することはできないのではないでしょうか。
左からステラーク、マーク・クイン、イ・ビョンホ
「医学と芸術展:生命(いのち)と愛の未来を探る」展示風景 2009/11/28-2010/2/28
「医学と芸術展:生命(いのち)と愛の未来を探る」 2009/11/28-2010/2/28
いずれにせよ、まだ細胞レベルであるとはいえ、人体はテクノロジーによって構成され始めており、さらにテクノロジーによってエンハンスメントされる、つまりある種の変形を受容するとば口に立っているということがおわかりになると思います。先端テクノロジーがもたらすであろう、以上のような人体の変容という問題、これをイ・ブルのサイボーグ・シリーズが真正面から見据えていることは言うまでもないでしょう。しかし、イ・ブルの話に入る前に、もう少しだけ別のサイボーグ・アーティストを紹介しておきます。1人目はオルラン、2人目はステラークです。オルランはフランス在住のアーティストで、自分自身に対する整形手術とコンピュータ・グラフィックスにより「カーナル・アート」をつくり出しています。ステラークはオーストラリア在住のアーティストで、ブレイン・マシン・インターフェイスを思わせるコンピュータへの身体接続によるサイボーグ・ボディをパフォーマンスしていましたが、近年、自分の腕に人工の耳を埋め込むというアートを披露しました。サイボーグの形象はアートの世界では、このように人間とコンピュータというテクノロジーの融合というイメージにとどまらず、バイオテクノロジーを通じて人間がテクノロジーによって構成され、さらには変形・変容されるというイメージにまで拡張されつつあります。そして、このことはアートの世界だけでなく、BMIとiPS細胞の例に見られるようにサイエンスの世界でも、多かれ少なかれ現実となりつつあるのです。
*1. Donna J. Haraway, "A Cyborg Manifesto," in Simians, Cyborgs, and Women: the reinvention of nature, Free Association Books: London, 1991, p.149.
生と死の件。グッドイヴとのインタビュー(メモ)
*2. 「ダイレクト・リプログラミング」(メモ)
*3. 八代嘉美『増補iPS細胞』平凡社新書、2011年、p.154以下。
<関連リンク>
・サイボーグから見るイ・ブル
第1回 サイボーグ技術の今、ブレイン・マシン・インターフェイスやバイオ・テクノロジー
第2回 テクノロジーの発展に対する魅力と恐怖
第3回 生への探求・模索としてのサイボーグ
・「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」
会期:2012年2月4日(土)~5月27日(日)
・設営風景「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(flickr)
・「イ・ブル展」アーティストトーク2012/2/4(flickr)
・展示風景「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(flickr)
・「イ・ブル展」はこうしてつくられた!
普段見られない舞台裏に潜入したフォトレポートをご紹介します。(Blog)
・松井冬子×片岡真実 「イ・ブル展」MAMCナイト対談ギャラリートーク
第1回 松井冬子さんとイ・ブルの共通点、作品に込められた「不安・恐怖・痛み」
第2回 彫刻家と画家の違い、〜制作のスタンス・大事にする感覚・進め方
第3回 松井冬子の「死」、イ・ブルの「ユートピア」
第4回 説明無しでも強烈なエネルギーを発する作品
第5回 社会に対するパンクな精神に共感する