2012年10月12日(金)

なぜ「ユートピア」に惹かれ、「ユートピア」を目指すのか
ユートピアを求めるアーティストたち(1)

2012年2月5日(日)に開催した「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」のシンポジウム理想の社会を求めて」。

なぜ人は「ユートピア」に惹かれ、「ユートピア」を目指すのか。
現代アートの多くのアーティストたちもユートピアにひかれ、作品を制作しています。
欧米を中心としたユートピア論の研究で知られるリチャード・ノーブル氏(ロンドン大学 ゴールドスミス・カレッジ、アート学部長)による講演を全4回連載でお届けします。


リチャード・ノーブル氏
撮影:御厨慎一郎

今回イ・ブル氏の作品に関するシンポジウムに招待され参加させていただくことになりました。森美術館並びにチーフ・キュレーターの片岡真実氏に感謝申しあげます。またイ・ブル氏にもこの素晴らしい展覧会に対して、そして彼女の作品についてのパネル・ディスカッションに参加することを承諾していただきお礼を申しあげたいと思います。
私はここ数年「現代アートにおけるユートピアへの傾向」と私が名付けたものの研究を重ねてきました。この傾向は広範囲に渡ると言えますし、現代アートの分野において様々な形で表現され相互作用をもたらしています。私のユートピア理論と現代美術におけるその役割についてしばらく見解を述べさせていただいた後でイ・ブル氏についての所見を述べさせていただきます。

ユートピアという課題については、2つの重要な問題あるいは2つに構成されたそれぞれ複数の問題群について関心を持っております。なぜこれほど多くのアーティストがユートピア戦略に惹かれるのかという理由をある程度明らかにしたいと思います。現代アートのアーティストにとってユートピアの魅力とは何か。なぜこれ程までユートピアに刺激を受けて現代アートが生き生きとしてくるのか。イ・ブル氏も含めて、なぜこれ程多くのアーティストがユートピアに関心を持ち、素材としてユートピアを取りあげるのでしょうか。


「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」展示風景
撮影:御厨慎一郎

私が興味深く思っている2番目の問題は、なぜユートピア戦略が、政治的アート、あるいは政治を題材とするアート、あるいはなんとかして世界に政治的インパクトを与えるような作品を制作したいと思っているアーティストたちの興 味の対象になるのかということです。政治に積極的に関心をいだいているアーティストにとってユートピアの魅力は何なのか。
マルクスが19世紀のユートピア社会主義者を「無邪気な空想家」と非難し、またロシア、中国、北朝鮮、カンボジア等多くの国で行われた20世紀の大規模なユートピア・プロジェクトが大失敗したにもかかわらず、明らかに政治に積極的に関わっている革新的なアーティストたちがユートピアに復帰したのはなぜなのか。政治に関心を持つアーティストにユートピアは一体何を提供してくれるのか。要点を申しあげましょう。第一に興味深いのは、なぜ多くの現代アートのアーティストに、彼ら自身がユートピアンであるとか、あるいはユートピアの作品を作る作家であるというレッテルを貼ることができるのかということです。次に興味をそそられるのは、実に多くのユートピア作品が、全部ではないにしてもとにかく政治が動機づけとなっているのはなぜかということです。

それでは、ユートピアとは何か、どんな意味を表わしているのでしょうか。西洋の伝統文化の中で「ユートピア」という言葉は、私たちの既存の世界、すなわち社会組織の矛盾、不合理、苦難が撲滅されたかあるいは克服されたと思われる理想郷を表わしています。ユートピアは私たちの既存の世界が改善され、あるいは完璧の域に達したと思われる場所という意味を持っています。

「ユートピア」という言葉は、英国の人文主義者トマス・モアが1516年に出版した本の題名に由来しています。ギリシャ語の「どこにも無い」という言葉から作られた造語です。その時すでにユートピアとは一種のだじゃれで、どこにも存在しないという考え方なのです。その原典には1516年の英国で推測できた完璧な社会の理想郷が描かれています。しかしモアは、西洋の伝統文化の中で完璧な社会あるいは完璧に近い社会を想像してみた最初の作家でも最後の作家でもありません。つまり西洋においてこのような著作は文学と哲学の分野で長い歴史を持っています。プラトン、モア、ルソーのような人物がいますし、そこにマルクスも含まれると主張する人もいます。


トマス・モア
『ユートピア』
アンブロジウス・ホルバインによる木版画
1518年版

さて私が論じたいのは、ユートピアの伝統文化の中で正統派とみなされる著述家も、ひいてはユートピア戦略を用いている多くの近代や現代のアーティストも、世界を究明するためにユートピアを手段、あるいは戦略として利用していることです。おそらくアートと哲学におけるユートピア戦略の一番決定的な特徴は、その戦略が建設的で計画的な要素と、否定的で欠陥の有無を判断する診断的要素の両方を持っているということです。またその戦略は、未来の世界の思いもよらない理想像や既存のものに取って代わるべき過激な未来像を映し出しています。そこには正義、平等、人間の可能性の実現などの信念や、その信念に従って人間の問題や社会を合理的に規制することなどが組み込まれています。その戦略はこのような信念を想像の世界として言わばスクリーンに映し出すのです。それはプラトンが自らの「国家」の中で語っているように、公正な都市を描こうとしています。すなわち状況はどのようになるかという未来像を言葉やドローイングや建築形式で映し出そうとしているのです。これはユートピア・ビジョンの前向きで計画的な要素であり、既存のものに代わる世界のモデルを形成しようとしている部分なのです。

でもやはりユートピアの形成は歴史的に見ても文化的に見ても常に特殊性を持っているように思われます。それはモデルを作りだす社会に常に関わっているからです。私たちは、他人の世界ではなく自分たちの世界が完璧な域に達した姿を想像します。従ってその理想像やモデルは、既存の社会制度に代わるべきものは何であるかを私たちに想像させることによって、自分たちの社会情勢の欠陥を分析し映し出してくれます。プラトンの「国家」、モアの「ユートピア」、ルソーの「社会契約論」はどれも世界のあるべき姿の青写真やモデルを私たちに示していますが、これらの青写真やモデルが明らかにしているのは、如何により良い世界を達成できるかというよりも、如何にその達成が程遠いものであり、より良い世界を達成するために求められる施策が如何に過激かということなのです。

「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」展示風景
イ・ブルのアトリエを模した展示室にはドローイングやマケット(模型)が並ぶ
「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」展示風景
撮影:渡邉修

この意味で、ユートピア作品は欠陥を診断するいわば鏡の役目を果たしています。完璧な社会のプログラムや青写真は実現を望む計画というより、それを生み出した社会の欠陥を明らかにするための手段です。従って空想上のユートピアは批判的な傾向をはらんでいます。それはこの世界に対しても、違う世界のモデルリングに対しても批判的な関わりを持つことになります。この意味で、ユートピア戦略は未来のビジョンと言うよりむしろ現状を批判するものだと言えます。ちなみに、根本的に成功しなかった暗黒世界のような「ディストピア」の未来像についてはまだ何もお話していません。ジョージ・オーウェルの『1984年』がいい例ですが、そこでは可能性の限界を超えてやり過ぎた人間の不幸な結末が力強くモデル化されています。ディストピアの未来像はユートピアの未来像と同じように効果がありますが、正反対に進行すると考えられます。

さて、以上が概念と戦略としてのユートピアに関する私の包括的な見解です。そこには世界がどう変わりうるかと想像してみる建設的な要素と、既存の社会的、政治的制度を批判して欠陥の有無を問いただす否定的な要素があります。
 

<関連リンク>

・ユートピアを求めるアーティストたち
第1回 なぜ「ユートピア」に惹かれ、「ユートピア」を目指すのか
第2回 ユートピア作品は社会の欠陥を写す鏡
第3回 4つのユートピア戦略と多様なユートピアンアーティスト
第4回 イ・ブルの批評的なユートピア作品

「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」
会期:2012年2月4日(土)~5月27日(日)

設営風景「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(flickr)

「イ・ブル展」アーティストトーク2012/2/4(flickr)

展示風景「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに」(flickr)

「イ・ブル展」はこうしてつくられた!
普段見られない舞台裏に潜入したフォトレポートをご紹介します。(Blog)

・松井冬子×片岡真実 「イ・ブル展」MAMCナイト対談ギャラリートーク
第1回 松井冬子さんとイ・ブルの共通点、作品に込められた「不安・恐怖・痛み」
第2回 彫刻家と画家の違い、〜制作のスタンス・大事にする感覚・進め方
第3回 松井冬子の「死」、イ・ブルの「ユートピア」
第4回 説明無しでも強烈なエネルギーを発する作品
第5回 社会に対するパンクな精神に共感する

カテゴリー:01.MAMオピニオン
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