2011年9月18日(日)に開催した「メタボリズムの未来都市展」第1回シンポジウム『メタボリストが語るメタボリズム』。メタボリストが一堂に会し、メタボリズムが語られた貴重な機会となりました。瞬く間に満席となり見逃した方も多いシンポジウムの模様を、これから7回にわたってお届けします。 [出演者:栄久庵憲司(インダストリアル・デザイナー)、神谷宏治(建築家)、菊竹清訓(建築家)、槇 文彦(建築家)モデレーター:内藤 廣(建築家)]
左から栄久庵憲司さん、槇 文彦さん、神谷宏治さん、菊竹清訓さん
撮影:御厨慎一郎
内藤:今日はメタボリズムを生み出された当事者の方々がお見えになっていますので、できるだけエピソードや、その当時の様子をみなさんにお伝えする場になればと思っています。ちょっと思い出すような意味で、1959年、1960年、1961年はどんな年だったかを見てみました。1959年は、長嶋茂雄の天覧試合があった年です。そしてその年に、フランク・ロイド・ライトが設計したグッゲンハイム美術館が完工しました。メタボリズム宣言が出された「世界デザイン会議」が行われた1960年には、フランスがサハラ砂漠で核実験を行っています。5月11日に「世界デザイン会議」が開かれますが、そのひと月後には全学連が国会に突入して、11月にはケネディが大統領に就任している。そのようなことが起きていました。あの時期の日本を取り巻く状況は、今とは全然違って、もっといろんなことがこれから変わっていくんだという雰囲気に包まれていたのではないかと思います。
さて、壇上にはたいへんな先達が並んでいらっしゃいますが、「何々先生」というふうにお呼びすると話しが固くなるので、今日は無礼講で「さん」と呼ばせていただきます。あらかじめお知らせしておきますが、菊竹さんがご都合で、一時間ほどで退席されます。
それではまず栄久庵さんから。当時を思い出していただいて、その頃はすでにバイクの設計などをされていたと思いますが、メタボリズムと聞いた時にはどんな感じで受け取られましたか?
栄久庵:当時は、日本も以前と何か変わってしまったし、日本は一体どういう国なのかということもわからない時期でしたから、非常に混乱していました。何か脱皮しなきゃならないと考えるなかで新しさを求めていた、そういう潜在意識があったんじゃないだろうか。全般的に新しい時代と古い時代が混じり合っていた頃で、そのような時にメタボリズムに誘われたのですが、最初はよくわからなかったんです。何のことかなと思っているうちに、「なんかすごそうだ」という気がしてきた。
川添さんと黒川紀章が尾っぽのついたハイヤーでやってきましてね、「どう、参加しないかね?」と。尾っぽのついたハイヤーだからすごいことだなと思っていたぐらいで。(笑)よくわからないけど大事そうだという感覚と、新しさを求める潜在意識が一緒になっていたと思います。私の専門はインダストリアル・デザインですから、建築とは全然違う分野なのですが、メタボリズムは原理的な世界のように思えて、これは建築のみならずどんな分野にも通用するはずだ、と自分で勝手に思い込んで参加したのです。
槇:僕は1952年に東京大学丹下研究室を卒業して、隣の神谷さんは同級生です。一緒に大学院でも丹下研究室のほうへ進みましたが、留学する機会がありまして、その後1958年までアメリカで過ごしています。その間、日本の建築事情は、雑誌や彼を通じて情報を入手していたのですが、当時、神谷さんが丹下研で担当していたものなどを通じて、もう丹下さんの建築は世界で通用するという感じを非常に強く持っていました。
グラハム・ファンデーションからフェローシップをもらって、2年間アジア、中東、ヨーロッパを旅行することにし、その準備の為、日本に一時帰国しました。その時に丹下研で中心的役割をされていた浅田孝さんが、一種の仲人のような形でメタボリズムの方と引き合わせしてくださいました。最初に浅田さんが、「夕飯でも食おう」と連れて行ってくれたところが、麻布にあるあの当時としては非常にしゃれたイタリアンレストランで、今もあると思うんですが、キャンティっていうところだった。ほどほどに食べていると、次へ行こうっていうんですね。今度はしゃぶしゃぶに連れて行ってくれて、レストランのはしごっていうのはこれが初めてで最後だったと思うんですが、「ああ、浅田さんっていう人はずいぶん違う人だな」と思った気がいたします。(笑)
そういう引き合わせの中で、菊竹さん、大髙さん、黒川さんたちに出会いました。何か燃え始めている、そういう雰囲気が、特に若い建築家の間にありました。当時30代の初めだったんですが、「世界デザイン会議」に向かって、皆でどうしようかというような議論を重ねていった。それが、あの会議の前夜の風景でもありました。
モデレーターの内藤 廣さん 撮影:御厨慎一郎
内藤:槇さんと大髙さんで《新宿副都心計画》を1960年につくられていますが、あのプロジェクトは「世界デザイン会議」をやるというので作られたんですか?
槇:そういうことです。当時すでに、菊竹さんはすでに第一線で活躍されると同時に、さまざまな提案をされている。黒川さんはまだ自分の作品はなかったけど、非常に早熟な方で、負けず劣らずさまざまな提案をし始めていました。僕自身は、アメリカのいろんな都市や建築の状況を知っていたので、菊竹さんや黒川さんに比べると、もう少し現実主義的なところがありました。それで、すこし別のことを大髙さんと二人でやろうかということになり、《新宿副都心計画》をマニフェストの中で発表したという経緯です。
<関連リンク>
・シンポジウム第1回「メタボリストが語るメタボリズム」
第1回 1960年前後、日本建築会の風景
第2回 そして迎えた1960年
第3回 それは廃墟のイメージから始まった
第4回 「世界デザイン会議」とメタボリズム
第5回 メタボリズムと時代精神
第6回 今、メタボリズムを考えることの意義
第7回 丹下健三とメタボリズム
・「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」
会期:2011年9月17日(土)~2012年1月15日(日)