本シンポジウムの最後では、《広島ピースセンター》《国立代々木屋内総合競技場》などの国家的プロジェクトを手掛けた東京大学丹下健三研究室に話題が及びました。また、メタボリズムのコンセプトを作られた川添 登さんにもお話を聞いています。
[出演者:栄久庵憲司(インダストリアル・デザイナー)、神谷宏治(建築家)、菊竹清訓(建築家)、槇 文彦(建築家)モデレーター:内藤 廣(建築家)]
丹下健三《広島ピースセンター》
1953年 撮影:石元泰博
内藤:最後に、神谷さんから、丹下健三についてぜひともお話をなさりたいということですので、お話をうかがえればと思います。
神谷:これは、CIAMという表題がついておりまして、近代建築国際会議と日本では言っておりますけど、その第8回会議が1951年に行われました。その時に丹下さんが広島の計画を初めて発表されました。広島の平和公園は、計画の約半分は実現していますが、かつては原爆ドームが非常に象徴的な形で町並みから抜きん出ていました。しかし最近、その横に商工会議所のビルやホテルが建ったりして、ドームの象徴性が著しく低下してしまい非常に残念に思っています。(一部省略)
都市計画に関わる仕事ですが、丹下さんは1945年から東京の改造計画を目指して、いろいろ勉強をされていました。1959年にアメリカのMITに招かれて設計の指導をした頃にはすでに《海上都市》のイメージを持っておられて、それに相当するような案を学生の中から指導して出させ、このような形を生み出したことになります。三角形の断面をうまく利用して内外空間の変化のある集合住宅を作る。その中に単に住宅だけではなく、様々な都市機能を組み込んでいく計画です。その年のWHOのコンペに応募するにあたって、MITで試みた三角形の断面を日本的な合掌造りのイメージに組み替えて提案したものです。ここでかなり記念碑性、象徴性といったものが意図されています。
1960年代に発表された《東京計画》では、小文字で「都市の構造改革を目指して」というサブタイトルがついています。東京湾の木更津に向けて都市軸を延ばしていく新しい提案で、先ほど申しましたように計画の背景には15年かけて大学院の研究課題として取り組んできた様々な基礎資料が織り込まれているわけです。
代々木の国立競技場に話題を移しますと、お寺の屋根をベースにして設計したんじゃないかとか、農家の屋根に似ているのでそこから連想したんじゃないかなどと人から聞かれるのですが、既存の事例を元にしてイメージしたという過程は全くございません。ひたすらにスタンドはどういう形が望ましいか、吊屋根の構造にはどういうものがあるか、地震などパニックの時に観客が安全に避難できるプランとはどういうものかなどを研究して、その過程の中で、これがふさわしいだろうということで決めたのです。最終的に非常に記念碑性の高いものになったのですが、それを表現しようという意識は強くあったものの、無理矢理にという形で出したのではなく、構造的な合理性あるいは設備の合理性というような、合理的条件を満たしながら完成していくことになったのです。ですから、記念碑的な造形は結果であって、プロセスの中ではもっと現実的な諸条件を解決するための戦いが繰り広げられてきた、そういうことをご承知頂きたいと思います。他の作品でも、丹下さんの表現した記念碑性というのは、いきなり出ていたわけではなく、50や60もの模型の様々なスタディの中から生まれてきたものなのです。
内藤:ありがとうございます。お話は尽きませんが、丹下事務所の仕事を中心にこうした流れがあったことを知って頂けたと思います。最後に一つだけ、今日はメタボリズムのコンセプトを作られた川添 登さんがお見えになっているので、全体の印象でも何でも結構です。コメントを頂きたいと思います。
川添:さきほどカーンの話が出ましたね。そのことについて補足したいと思います。「世界デザイン会議」の時に、ルイス・カーンが来日して3回の講義を行いました。翻訳されたいくつかの講演録を僕がまとめて、『近代建築』誌で解説しました。これを最近、読み直してみたんです。僕はカーンをたくさん読んだわけじゃないけど、かなり傑作のうちに入るのではないかと思いました。ヨーロッパの哲学をきちんと概念から取り上げているからです。言葉としてちゃんと建築を語るのは、やはりカーンが群を抜いているなという気がします。なんとかして本にしたいと思いますね。出たら一つ買ってください。(笑)
シンポジウム会場風景
撮影:御厨慎一郎
内藤:ありがとうございました。全体をまとめあげるつもりはありません。ただ、展覧会を見て感じたことはすべてのプロジェクトが「非常に生命的である」ということですね。このことは今、日本に非常に求められていることだと思います。国家というものが国の形を決め、都市を決め、建築を決め、という戦後しだいに強化され、社会を形成してきたストラクチャーそのものが壊れつつあります。自然とか災害とかそういうものが、人間の浅知恵の産物を洗い流して、その無効性を露呈させたのです。
振り返って、戦後のまだ未成熟だった社会システム、その隙間に希望や夢を描き得た時代。それがメタボリズムというエネルギーが噴出した場所だったのではないかと思います。もちろん状況は違うかもしれませんが、少なからず現在同じような地点に私たちも立っているのではないかと思います。3.11以降、今起きている事態をどう受け止めるかということに対して、もう一度この1960年という地点をまじまじと見てみることは、とても有用かつ重要なことなのではないかと思います。
※本原稿は、シンポジウムの講演録に適宜、編集を加えました。
<関連リンク>
・シンポジウム第1回「メタボリストが語るメタボリズム」
第1回 1960年前後、日本建築会の風景
第2回 そして迎えた1960年
第3回 それは廃墟のイメージから始まった
第4回 「世界デザイン会議」とメタボリズム
第5回 メタボリズムと時代精神
第6回 今、メタボリズムを考えることの意義
第7回 丹下健三とメタボリズム
・「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」
会期:2011年9月17日(土)~2012年1月15日(日)