本展が問いかけるもの&出展作品について
パンデミック以降をいかに生きるか?
新型コロナウイルス感染症の世界的拡大により、世界中の活動が急に停止した時、人間には何ができたのでしょうか? アートには何ができたのでしょうか? パンデミック以降をいかに生きるべきなのでしょうか?
オノ・ヨーコのインストラクション(指示書)を集めた「グレープフルーツ」には、本展のタイトルにもなっている「地球がまわる音を聴く」など、想像するだけで世界が広がる言葉があふれています。また、ギド・ファン・デア・ウェルヴェが行った自宅の回りを何千周も走り続け100キロを走破するというパフォーマンスは、日々の行為の積み重ね自体が壮大な営為になり得ることを表しています。ヴォルフガング・ライプは、花粉や蜜蝋、牛乳などの身近なものを用いて、生命のエッセンスを最もシンプルかつ美しく提示してきました。エレン・アルトフェストの森の中で描き続けた木の絵は、自然やそこに含まれる幾多の生命の本質を明示します。
「パンデミック以降をいかに生きるか?」を考えるために、これらの作品の想像力を借りて、この複雑で広大な世界を省みること、本質を見つめ直すことから始めてみるのはいかがでしょうか。
私たちの心はどのように社会を捉え、どのような風景を描いたのか?
パンデミックは、世界中に健康危機をもたらしただけでなく、私たちの生きる社会に横たわるさまざまな問題、分断や衝突を可視化し、国や人種、宗教といった大きな枠組みから、地域や家庭といったより身近な環境、生き方をも直視させました。そうした状況のなかで私たちの心は、どのような風景を描いていたのでしょうか?
ドメスティック・バイオレンス(DV)をテーマにした飯山由貴の新作は、被害者と加害者の双方からのインタビューを中心としたインスタレーション作品で、鑑賞する私たちひとりひとりに、自分自身の日常を異なる視点から見つめることを促します。小泉明郎の新作映像は、催眠術を用いて言語に頼った人間の認識の脆弱性を明らかにしながらも、心の回復の可能性を考察するものです。またゾーイ・レナードの作品も、日常的な行為が救済につながる可能性や、連帯するコミュニティの力強さを示します。
さまざまな状況下で社会や自分自身と向き合うアーティストたちの作品は、私たちの生活や身の回りの環境を、異なる視点から観察し、再考することの重要性を示しています。
生きることそのものが芸術になるのか?
堀尾貞治は、表現することは生きる上でまるで空気のように存在する「あたりまえのこと」であるとし、さまざまなメディアを用いて全身全霊で作品制作に取り組みました。その数は10万点を超えます。妻である堀尾昭子も同じ場所で生活し、全く性格の異なる作品を制作し続け、二人の生活はそのまま芸術表現に繋がっていました。ロベール・クートラスは、画壇をはなれ、困窮の中で自身が信じる作品世界を追求し続けました。金崎将司は高度な集中力を持続し、雑誌や広告の断片を重ね、抽象的な立体を制作し続けます。
あらゆるものの定義や前提が揺るがされた今、「生きることとはなにか」という問いに、もう一度、向き合う必要があるのではないでしょうか。表現する衝動やエネルギーが作品からあふれ出し、生きることの根源的な意味と直結するこれらの作品は、まさにひとつの回答を提示しているといえるでしょう。
自分と宇宙、今日の一瞬と永遠はどう繋がっているのか?
有史以来、人類は自然災害や争い、そして病など、さまざまな困難に絶えず直面してきました。日々を生きることが脅かされるとき、私たちはどのようにそれを乗り越えてきたのでしょうか。過去や自然から学び、壮大な時間と空間の流れのなかに自分自身を位置づけてみることは、そのひとつの方法かもしれません。
東北をテーマとした内藤正敏の写真作品と青野文昭のインスタレーションはどちらも、遥か過去と現在を繋ぎ、自然や宇宙、神々や霊的な存在への畏怖の念とともに歩んだ人類の歴史を感じさせます。また、新聞という日常的な素材を用いた金沢寿美の作品は、紙面に掲載される大小さまざまな出来事の連なりが、やがては宇宙をも思わせる大きな時間の流れとなることを、大型のインスタレーションで表現しています。展覧会の最後を飾るモンティエン・ブンマーのインスタレーション作品は、鑑賞する人に呼吸を整え瞑想する空間を与え、ツァイ・チャウエイ(蔡佳葳)の作品は、鏡に映り込むわたしたち自身の存在もまた、曼荼羅の表す壮大な宇宙の一部であることを示しているようです。