2015年7月26日に行われたトークセッションレポート後編では、ディン・Q・レとともにサン・アートを主催しているゾーイ・バット氏によるトークをご紹介します。ベトナムのアートシーンをけん引するバット氏が、ベトナムの現代美術とその環境を紐解きます。
ゾーイ・バット氏
林道郎氏のプレゼンテーションに続いて、ゾーイ・バット氏のトークは、ディンが家族とともに米国に移住して以来はじめてベトナムを訪れた際のエピソードから始まりました。北ベトナム軍の従軍写真家として活動していたヴォ・アン・カーンへの興味がきっかけで、ディンは1993年に故郷を再び訪ねる決意をしたそうです。それから何度もベトナムを訪れ、1997年には拠点をホーチミンに移し、2007年に他のベトナムに帰国したアーティストたちとともにサン・アートを立ち上げました。その動機、必要性を理解するためにもベトナムの現代美術を取り巻く状況を知ることは重要です。1975年に統一され、社会主義国家となったベトナムの美術は、個人の表現より集団的な愛国心が優先されていました。1986年にドイモイ政策(※)の宣言がなされ、少しずつ海外の情報が入ってくるようになると、政府のプロバガンダとしての表現に対する反発が起こり、また「現代とは?」「アートとは何か?」と考える中で、ベトナムの閉じた状況に対する疑問も大きくなっていきました。
そうして生まれてきたベトナムの現代美術が、最も顕著に人々の前に表れたのが、1994年にハノイで行われたチュオン・タンによるパフォーマンスです。彼は作品を通じて個人の主張に声を与えたり、政治的な主題を押し付けられることや、社会主義リアリズム的な表現を拒否するアーティストの先駆的な存在となりました。何人かのアーティストが彼と同じくジェンダーや権力構造、ベトナム社会の農業との関係について関心を持ち作品を制作しましたが、性やヌード、宗教に関する表現を恐れた政府によって、すぐに中断されてしまったそうです。時を同じくして学生が「美術協会」へ批判的な意見をもつようになり、いくつかのアーティスト集団が生まれ、インスタレーションや映像作品が制作されるようになりました。これらはすべて首都ハノイで起こった出来事です。
会場の様子
ではディンの「故郷」であるサイゴン(ホーチミン)はどうだったのでしょうか。バット氏によれば、ハノイに比べてサイゴンでは活発な動きはなかったそうです。しかし1990年代後半から2000年代にかけて、かつてベトナムを難民として去った出自を持つアーティストたちが、サイゴンに戻ってくるようになり、状況は変わりました。1997年にはディン・Q・レが、1998年には、ジュン・グエン=ハツシバがベトナムに戻ります。ハツシバが帰国後に展覧会を行ったブルー・スペース・コンテンポラリーはサイゴンで初めて実験的な美術を展示したスペースであり、設立者のガー夫人は、本展出展作品の《闇の中の光景》の中で、夫であり作品の主題であるトラン・トゥルン・ティンについて語っている女性です。バット氏は、社会主義国家であるベトナムにおいて、ベトナム戦争の話題は、現在でも非常にデリケートだと語ります。実際、ディンは自身の作品をベトナムでは展示しないという決意をしたそうです。それは、制限のある中で制作したり発表たりしたくないという理由からでした。
しかし、ディンはベトナムで目撃した、友情を介して育ってゆくアート・コミュニティに加わりたいと考え、サン・アート設立を決意します。
最後に会場から「もし現在の社会主義の体制において、サン・アートでの活動によって逮捕されてしまうとしたら、あなたはどうしますか?どこか他の国に逃れますか?」との質問がありました。するとディンは「逮捕されてしまうとしても、私はどこにも行きません。ベトナムは私の故郷ですから。もう二度と逃げ出すことはしたくないと思います。」と答えました。ベトナムへの思いをまっすぐに語るディンの言葉に、多くの人が心を動かされたのではないでしょうか。
左から:ゾーイ・バット氏、ディン・Q・レ、林道郎氏、荒木夏実(森美術館キュレーター)
※ドイモイ政策――1986年にベトナム共産党により提起された「刷新」を意味するスローガン。市場経済の導入や私有財産を一部認めるなど、従来の社会主義思想に基づいた政策から自由化に向けた大きな転換のきっかけとなった。
文:熊倉晴子(森美術館 アシスタント・キュレーター)
撮影:田山達之
<関連リンク>
・「ディン・Q・レ展:明日への記憶」トークセッション第1回「ベトナム現代アートをめぐって:戦争から今日まで」
レポート 戦争、写真、ベトナムの現代美術について(前編はこちら)
・ディン・Q・レとモイラ・ロス――ふたりのダイアローグ「ディン・Q・レ展:明日への記憶」アーティストトーク レポート
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