現在、森美術館で開催中の「ディン・Q・レ展:明日への記憶」(~10月12日まで)。2015年7月26日に行われたトークセッションでは、上智大学国際教養学部教授である林道郎氏にベトナム戦争と写真について、ディン・Q・レとともにホーチミンでサン・アートというアートスペースを主催しているゾーイ・バット氏には、ドイモイ政策(※)以降のベトナム現代美術についてお話いただきました。
1968年にベトナムのカンボジアとの国境近くの街に生まれ、10歳のときにポル・ポト派の侵攻、ベトナム共産党の圧政から逃れるために、難民としてアメリカへと移り住んだディン。アメリカの大学で写真などを学び、その後ベトナムに戻った彼の作品には、ベトナム戦争に対する複雑な視点がたびたび表れます。また、ディンはアーティストとしてだけでなく、サン・アートを主催し、若手アーティストの支援や、地域や政府の現代美術への理解を深めることを目的に活動しています。
レポート前編では、林道郎氏のプレゼンテーションをご紹介します。
林道郎氏
林道郎氏のプレゼンテーションではまず、ベトナム戦争と日本の関わりについてのお話がありました。日本の米軍基地、とくに沖縄はベトナム戦争攻撃の拠点としてだけでなく、ジャングルで戦うためのトレーニングの場所としても機能しており、当時アメリカ軍は公式に「沖縄の基地なくして、ベトナム戦争を続けることは不可能」とコメント。また、沖縄以外の米軍基地、例えば横須賀基地も第七艦隊の船籍港となり、埼玉の朝霞基地内には日本最大規模の米軍兵士のための病院があったそうです。基地周辺地域はもちろんのこと、医療、自動車、石油、輸送産業もベトナム戦争による経済的な恩恵を受けました。日本政府は公式に兵士を戦場へ派遣することはありませんでしたが、米軍に協力していたことは明白で、日本でも多くの反戦活動が起こりました。当時大阪万博に沸き立つ日本ではそれらの抗議の様子はあまり熱心には報道されなかったようですが、当時の資料を見ると、その規模の大きさや行動の大胆さに驚かされます。また、石川文洋、一ノ瀬泰造などの写真家がベトナムへ渡り、戦場の様子を伝えました。
ベトナム戦争は、写真報道が大々的に、かつ即時的になされた初めての戦争です。ここで林氏は「ベトナム戦争のイメージはどのように受容されてきたのか」と問いかけます。それはディンの作品でも繰り返されている問いです。各国の報道写真家が、アメリカを含む世界に伝えたイメージの数々は、報道、音楽、文学など様々な領域に影響を与えました。
会場の様子
そしてちょうどその頃、スーザン・ソンタグや、ロラン・バルトなど20世紀を代表する思想家たちが、写真について論じ始めました。日本でも、写真家の中平卓馬らが出版した雑誌『プロヴォーク』を中心に、活発な議論が行われました。彼らがベトナム戦争そのものについて論じている部分は少ないとはいえ、これらの同時性は偶然ではないだろうと林氏。写真によって観客に伝えられる「リアリティ」は、ともに伝えられる物語によって大きく変化します。そうした写真やイメージの曖昧さに対して、初めて意識的に論じたのがソンタグやバルト、そして中平だったのです。
林氏は、こうした写真についての言説が盛んになっていった時代に美術大学で学んだディンに対し、アメリカでの写真に対する知識層の反応や、当時の雰囲気を訊ねました。ディンは「大学時代は確実にそういった雰囲気を感じていました。写真が徐々に現代美術に受け入れられていった時代でもあります。しかし実際に授業で学んでいたのは非常に前近代的なもので、新しい理論や考え方については自分で学びました。私の作品にとって、その時代の影響は非常に強いと思います。大量にあるベトナム戦争の報道写真をどのように受け止めるかという問題は、今も問い続けています。また、アーティストのアン・ハミルトンの授業にも非常に影響を受けました。彼女の授業は、どのようにその素材(マテリアル)を見るか、そしてどのように使うか、その素材が何を持っているのかを考えることを教えてくれました。それによって写真をメディアとしてだけでなく、素材として考えるようになったのです。」また、ベトナム戦争については「まだ探求している途中です。新しいものを発見するたびに、異なる視点があります。」と語りました。
ディン・Q・レ
※ドイモイ政策――1986年にベトナム共産党により提起された「刷新」を意味するスローガン。市場経済の導入や私有財産を一部認めるなど、従来の社会主義思想に基づいた政策から自由化に向けた大きな転換のきっかけとなった。
文:熊倉晴子(森美術館 アシスタント・キュレーター)
撮影:田山達之
<関連リンク>
・「ディン・Q・レ展:明日への記憶」トークセッション第1回「ベトナム現代アートをめぐって:戦争から今日まで」
レポート 戦争、写真、ベトナムの現代美術について(後編はこちら)
・ディン・Q・レとモイラ・ロス――ふたりのダイアローグ「ディン・Q・レ展:明日への記憶」アーティストトーク レポート
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