「STARS展」トークセッション第2回「日本から海外へ:欧米編」開催レポート
2020.12.22(火)
森美術館で開催中の「STARS展」では、作品だけでなく、6名のアーティストそれぞれの展覧会歴や当時の発言、批評などから構成された活動年表を展示しています。また1950年代から現在にかけて海外で行われた日本現代美術展50選を調査・紹介。展示ケースに並べられた膨大な資料とあわせて、日本現代美術史を展望することができます。ラーニング・プログラムでは、オンラインで関連トークを実施し、その記録動画をウェブ上で公開しています。(第1回「日本から海外へ:アートマーケット編」はこちらから動画およびレポートをご覧ください。)
第2回は2020年10月17日に開催した「日本から海外へ:欧米編」です。森美術館アシスタント・キュレーターの矢作学がモデレーターを務め、岡部あおみ氏(美術評論家、キュレーター、上野文化の杜新構想実行委員会国際部ディレクター)、池上裕子氏(神戸大学教授)、中嶋泉氏(大阪大学准教授)の3名が登壇しました。
岡部あおみ氏がコミッショナーを務めたのが、「前衛芸術の日本 1910–1970」展(ポンピドゥー・センター、1986年)です。岡部氏は草間彌生の野外ハプニングの写真に写り込んでいた男性器が税関で問題となり、カタログを日本に輸送するのに長い時間がかかったという逸話からプレゼンテーションを始めました。1977年に開館した同館の初代館長ポントゥス・フルテンは、美術、建築、デザイン、音楽を横断し、都市全体を学際的に扱う方向性を打ち立てます。現代美術と宗教美術を同列に展示し、西洋中心主義を揺るがすひとつのきっかけとなった、ジャン=ユベール・マルタンによる「大地の魔術師たち」展が同館で開かれるのは1989年ですが、「前衛芸術の日本」展は日本への関心の高まりのなか、1986年に開催されています。岡部氏は領域横断的だった展覧会の様子を、写真や映像と共に紹介しました。
岡部氏は反芸術のアクションやパフォーマンス、映像を中心に作品選定を担当し、当時珍しかったモニターによる映像展示を行いました。また「前衛芸術の日本」展において磯崎新による「〈間〉-日本の時空間」展(パリ装飾美術館から始まりアメリカと北欧を巡回、1978-1981年)からジェネラル・コミッショナーのジェルマン・ヴィアット氏が影響を受け、また自身が影響を受けたのは白川昌生が企画した「日本のダダ:日本の前衛 1920-1970」展(クンストハレ・デュッセルドルフ、1983年)のカタログだったそうです。そして戦後の日本美術史にとって重要な作品16点がすでに消失していたため、「前衛芸術の日本」展のために再制作されました。岡部氏はポンピドゥー・センターが2006年に、パリで開催された「具体」展(ジュ・ド・ポーム国立美術館、1999年)のために改めて再制作された田中敦子の電気服を購入した事例を挙げ、非欧米圏の美術や女性アーティストの評価に大きな変化が生じたと強調しました。
池上裕子氏は博士論文を元にした書籍、『The Great Migrator: Robert Rauschenberg and the Global Rise of American Art』(MIT press、日本語版は『越境と覇権 ―― ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』三元社、2015年)を2010年に上梓。第二次世界大戦後のアメリカ美術の台頭やラウシェンバーグの活動を、国境を超えた複数都市間のダイナミクスから論じた同書がきっかけとなり、池上氏は「インターナショナル・ポップ」展(ウォーカー・アート・センター、2015年)のコンサルティング・キュレーターを務めます。同展はフランス、ブラジル、アルゼンチン、日本、 ドイツなど各地の動向を地域別に見せるだけでなく「ポップと政治」「イメージが流通する」「愛と絶望」などのテーマ別セクションを通して、ポップアートの動向を国際同時代性のなかで再考するものでした。
東京セクションでは、1930年代に生まれ、少年時代に敗戦を経験し、アメリカに憧れを抱く青年時代を送ったアーティストの作品を、アメリカに対する愛憎入り混じった態度や文化批評的な戦略によるものとして紹介。特に着目したのが、ときに彼らがマルチプルとして作品を制作していたことや、浮世絵の手法を取り入れたことです。また横尾忠則や田名網敬一らがグラフィック・デザイナーの活動と並行して作品発表を行っていることにも注目しました。特に田名網は、篠原有司男と長い交流があったにも関わらず戦後の美術史に位置づけられてきておらず、特に力を入れて紹介したと話しました。
中嶋泉氏のプレゼンテーションでは、草間彌生の受容がどのように変化してきたのかを分析。まず中嶋氏は活動を始めたばかりの1950年代の新人評を取り上げ、女性らしさやその感覚を評価する当時の言説が、他のジャンルでも生まれていた「女流」というジャンルに押し込めるものであったと話しました。草間は1957年に渡米。ニューヨークの言説はこうした束縛から草間を一時的に解放します。当時ニューヨークでは美術批評家クレメント・グリーンバーグの影響から、視覚的経験が重視され、人種や性別を超えた普遍的な側面から作品を評価する傾向がありました。しかし中嶋氏はそれがモダニズムから逸脱するアイデンティティを抑圧する方向にも働いていたと指摘。草間が公共空間で身体的なハプニングを行うようになると次第に評価の声が薄れ、草間はニューヨークを去り、日本に帰国します。
「大地の魔術師たち」展が開催された1989年にはニューヨークでも多文化主義が広がり、草間の活動に再び光が当たります。同地を非欧米圏に開くことを目的したニューヨーク国際芸術センター(CICA)で草間の海外初の大規模回顧展が開催されました。中嶋氏はブペンドラ・カリアによる日本近代史や草間の生い立ちをたどったバイオグラフィカル・ノーツと、アレクサンドラ・モンローによる論考を紹介。草間の生い立ちに目が向けられると同時に、病理に関する言説は草間の切迫性と独自性、正統性を担保し、以降強い影響を持ったと話しました。
2000年代に入ると、次第に日本人であることへの言及が弱まり、草間は「神秘的な能力のある普遍的な芸術家」として言説化されていきます。中嶋氏は同年代のアーティストが没していくなかで、草間は「新作を発表しつづけるモダン・アーティスト」としてグローバルに扱われるようになった指摘します。参加型の作品は世界中の人々に対して芸術的経験を共有できるというファンタジーを与えたと話し、今改めて草間を巡る言説を再考する必要があるのではないかと発表を締めくくりました。
後半では、互いのプレゼンテーションを元に議論が行われました。岡部氏が草間の病理について質問すると、中嶋氏は「精神病を患っていることを強調することでアーティストの神秘化が進んでしまった。症状や精神的な状態があったとしても、そのうえでアーティストの知性や戦略、実行力があることを見落としてはならない」と回答しました。
矢作が2000年代以降活発になったグローバル・アートヒストリーとは改めて何だったのかと問いかけると、池上氏は美術史家の間で明確な定義があるわけではないと断ったうえで、「国ごとにそれぞれの美術史があるとするナショナリズム的美術史観やヨーロッパ名作中心主義を疑い、近代の読み直しのなかで複数の地域に渡るものとしてモダニズムを扱う」ものであると応じました。また世界を俯瞰できる万能な道具ではなく、実際には調査対象を定めて、ケーススタディ的に地道な調査を重ねるものであると続けました。
中嶋氏は「フェミニズムそのものがモダニズムやナショナリズムへの批判という側面をもっており、トランスナショナルな視点が導入されている」とフェミニズムとの関係から複数の地域の言説を横断する中嶋氏の研究方法を説明したうえで、「西洋・男性中心主義的な美術史を反省するだけでなく、そのうえで美術史を書きかえていく必要がある」と強調しました。
岡部氏も「日本では、すでに力を持っている言説を分析し、打破する研究が少ない」とその必要性を指摘。池上氏からはこうした見直しは結局のところ西洋を中心におきているようにみえるが、日本の美術館や美術業界は何をすべきと考えるかと質問が返されると、矢作は「美術史の周縁として受動的に関わるのではなく、アジア圏との関わりの中で美術史を再検討するなど、主体性が求められている」と応え、西洋由来ではない新しい言説を作り、それを国際同時性のなかで結晶化する作業が必要なのではないかと総括しました。
本プログラムの動画はこちら:
https://youtu.be/lIozyDapboI
文:飯岡 陸(森美術館)
撮影:田山達之
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