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三影堂が中国現代写真史に果たした役割とは? ウー・ホン氏、榮榮&映里、笠原美智子氏のトークセッションをレポート!

2017.9.6(水)

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2017年7月29日の午後、「MAMリサーチ005:中国現代写真の現場−中国撮影芸術中心」の関連プログラムとして、 トークセッションを開催した。今回の展示の共同キュレーターであり、中国の現代写真に大きな貢献をしてきた三影堂の活動を見続けてきたウー・ホン氏による中国現代写真に関するレクチャーと、三影堂の設立者でアーティストの榮榮&映里(ロンロン・アンド・インリ)による三影堂の活動紹介、そして最後に東京都写真美術館事業企画課長 笠原美智子氏を迎えてディスカッションを行った。

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ウー・ホン氏

ウー・ホン氏はレクチャーの中で、中華人民共和国が成立した1949年から1970年代末までのおよそ30年間にわたって国家のプロパガンダとして機能していた写真が、1976年の文化大革命の終焉後「非公式」の表現として発展していった流れについて述べた。政府の傘下ではない初の写真クラブ「四月影会」ほか多くの写真家グループの出現、1980年代の海外からの情報の流入に刺激された新たなドキュメンタリー写真の誕生、さらに1990年代の実験的写真の発展の様子をスライドとともに紹介。また、1990年代から2000年代の写真に現れる歴史や記憶に関する描写が、開発のために破壊と建築を繰り返す中国社会の都市の状況と連動していることを語った。

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笠原美智子氏

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榮榮(右)と映里(左)

ディスカッションでは、撮影賞の審査員として何度か三影堂を訪れている笠原氏からコメントがあった。「公立美術館が行うような、作品を体系的に集めて展示する場所を2人のアーティストが作ってしまった事実は驚きで、実際に訪れた際にも圧倒された。アーティストが自分の作品を見せるための美術館を作ることはあるが、三影堂のように自身の作品以上に公共のことを考えて運営する場所を見たことがない」。これに対して榮榮&映里は、「三影堂の運営、企画、自らの制作活動は必要に迫られて行っていること。公共のためであると同時に私たちにとっての必然でもある。三影堂自体が自分たちの作品だ。」と答えた。

また、財政、運営などあらゆる面で苦労を重ねながら10年間続けてきた三影堂に関してウー・ホン氏は「榮榮と映里のコンビネーションこそが三影堂の原動力。また少しずつではあるが中国国内の個人支援、日本企業からの支援など、日中の異なるサポートの存在は彼らの強み」と述べた。

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「MAMリサーチ005」の会場入口

さらに観客からの「なぜ言葉も通じない北京に(わざわざ日本から)渡ろうと決心したのか」という問いに「北京に榮榮がいたから」と明快に答えた映里。初めて榮榮の写真を見て(立川国際芸術祭、芸術監督:清水敏男、1999年)衝撃を受けた映里は、写真を介して榮榮とコミュニケーションを取り始める。迷いながらもひとたび北京に行くと、複雑な問題は一切消えて、榮榮&映里としての新たな世界が広がっていったという。常に立ち返るところは写真というのが二人の基本姿勢である。

三影堂設立までの30年の中国の写真の歴史、この10年間に急激な変化を遂げた中国社会の中で三影堂が写真表現のために尽力してきた活動、そしてごく私的かつ重要な榮榮&映里の始まりの物語について聞くことのできた貴重な場であった。

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トークセッションの後、関係者一同で

文:荒木夏実(森美術館キュレーター)
撮影:田山達之

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