作家名 | : | 藤井 光/Fujii Hikaru(1976-) |
---|---|---|
出身/在住 | : | 日本 |
制作年 | : | 2016 |
素材 | : | ビデオ |
サイズ | : | 21分 |
2004年パリ第8大学美学・芸術DEA課程修了。藤井光は初期からほぼ一貫して映像インスタレーションを制作する。芸術は社会と歴史と密接に関わりを持って生成されるという考えのもと、世界各地の歴史や出来事を綿密にリサーチし、今日の社会課題に応答する、映像メディアの可能性を生かした作品にすることが多い。また、参加型ワークショップを撮影したもの、ドキュメンタリー的手法、脚本・演出による映画的な手法など、作品により制作方法を使い分けている。近年では、2019年「あいちトリエンナーレ2019」、2021年「3.11とアーティスト:10年目の想像」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)などに参加し、2020年「Tokyo Contemporary Art Award 2020–2022」を受賞。
本作は、第二次大戦中の米国陸軍が情報収集と自国民の教育訓練のために制作した映像『日本の教育制度』と、2015年に作家が韓国国立現代美術館で行ったワークショップの記録映像を組み合わせたものである。前者は日本の学校教育が国民のナショナリズムと独裁的権力を強化するための手段であると解説されるが、これは歴史修正主義とも解釈できる日本の教科書改訂という昨今の現実をわれわれに思い起こさせる。後者では、ある記録映像を見た学生がそれを言葉で描写したり体を使って再演したりする。この映像の内容はわれわれには明かされないが、殺戮などの残虐行為を記録したものであることが推測できる。また、『日本の教育制度』の中の統制が取れた戦中の日本人学生の動作が映し出されるシーンもあるが、それを無邪気に模倣する韓国人学生たちの身体は緊張感がなく、戦争(とそれに派生する規律)が日本だけでなく韓国にとっても意味が希薄になっている現れとも解釈できよう。そして作品の最後では、朝鮮が日本から独立するシーンを演じる学生たちの創作行為は、藤井の指示を逸脱して熱を帯びる。
本作は藤井が学生をコントロールすることで制作されているが、作家による統御と学生が見せたそこからの逸脱は今日の日本、韓国、米国における全体主義的思想の表出やナショナリズムとそれに対する抵抗という事象と、奇妙に共鳴するようにも思える。
作家名 | : | 藤井 光/Fujii Hikaru(1976-) |
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出身/在住 | : | 日本 |
制作年 | : | 2016 |
素材 | : | ビデオ |
サイズ | : | 21分 |
2004年パリ第8大学美学・芸術DEA課程修了。藤井光は初期からほぼ一貫して映像インスタレーションを制作する。芸術は社会と歴史と密接に関わりを持って生成されるという考えのもと、世界各地の歴史や出来事を綿密にリサーチし、今日の社会課題に応答する、映像メディアの可能性を生かした作品にすることが多い。また、参加型ワークショップを撮影したもの、ドキュメンタリー的手法、脚本・演出による映画的な手法など、作品により制作方法を使い分けている。近年では、2019年「あいちトリエンナーレ2019」、2021年「3.11とアーティスト:10年目の想像」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)などに参加し、2020年「Tokyo Contemporary Art Award 2020–2022」を受賞。
本作は、第二次大戦中の米国陸軍が情報収集と自国民の教育訓練のために制作した映像『日本の教育制度』と、2015年に作家が韓国国立現代美術館で行ったワークショップの記録映像を組み合わせたものである。前者は日本の学校教育が国民のナショナリズムと独裁的権力を強化するための手段であると解説されるが、これは歴史修正主義とも解釈できる日本の教科書改訂という昨今の現実をわれわれに思い起こさせる。後者では、ある記録映像を見た学生がそれを言葉で描写したり体を使って再演したりする。この映像の内容はわれわれには明かされないが、殺戮などの残虐行為を記録したものであることが推測できる。また、『日本の教育制度』の中の統制が取れた戦中の日本人学生の動作が映し出されるシーンもあるが、それを無邪気に模倣する韓国人学生たちの身体は緊張感がなく、戦争(とそれに派生する規律)が日本だけでなく韓国にとっても意味が希薄になっている現れとも解釈できよう。そして作品の最後では、朝鮮が日本から独立するシーンを演じる学生たちの創作行為は、藤井の指示を逸脱して熱を帯びる。
本作は藤井が学生をコントロールすることで制作されているが、作家による統御と学生が見せたそこからの逸脱は今日の日本、韓国、米国における全体主義的思想の表出やナショナリズムとそれに対する抵抗という事象と、奇妙に共鳴するようにも思える。