作家名 | : | 森村泰昌/Morimura Yasumasa(1951-) |
---|---|---|
出身/在住 | : | 日本 |
制作年 | : | 2017-2018 |
素材 | : | Cプリント、透明メディウム |
サイズ | : | 210×300 cm |
森村泰昌は、ゴッホの自画像に扮したセルフポートレート写真《肖像(ファン・ゴッホ)》(1985)など、自らが美術史上の名画の一部となる作品群を手がけてきた。絵画史において、「自画像」は画家が自身の主体性と自己の内面世界を探求する内省的なものとして発展した。森村が手作りの衣装をまといながら西洋の古典絵画に入り込むことは、異国が定めた美の規範をなぞることでしか「私」という存在を表すことができなかった、近代の日本人作家の苦悩を自ら受け継いでいると言える。しかし同時に、森村はさまざまな姿に扮した日本人男性を異物として絵に挿入することで、西洋絵画の固定観念を解体し、その背後に潜むジェンダーや人種などをめぐる物語を明るみに出すのだ。1988年に、ベネチア・ビエンナーレの「アぺルト」部門に参加。その後、国内外の美術館で多くの個展を行っている。
森村の《肖像(双子)》と、その約30年後に制作された《モデルヌ・オランピア2018》は、マネの代表作《オランピア》(1863)を主題とした写真作品。マネは《オランピア》で、ヌードの女神を描くべきところに裸の娼婦を据えることで、芸術の名のもとに女性の身体を欲望の対象として客体化する男性の眼差しを暴いた。森村は、この性差間の問題を人種間の問題へと転換するために自身の「男性の体」を露にしたままベッドに居座り、西洋の眼差しによってしばしば女性的とみなされてきた東洋人男性の姿を表している。また、裸婦の側にいる黒人女性的や白人男性もまた森村であり、眼差しの力学に白人と黒人の人種関係も内在していること示している。つまり、この自画像が表現しているのは、自己の精神を反映した「私」ではなく、複雑に絡み合う文明間の衝突に巻き込まれた日本人としての「私」なのだ。このように森村は絵画の名作に自らの身体を挿入することで積極的な読み直しをはかる。この批評的な態度は「当然の事実として歴史を受け入れることに抵抗を覚え、歴史という権威を壊してしまいたい」と考え、制作の動機を「破壊と再創造の行為の延長線上に位置しているのかもしれません」(*)という森村の言葉からも読み取れるだろう。
* 森村泰昌「My Art, My Story, My Art Historyに向けて」ShugoArtsウェブサイトhttps://shugoarts.com/news/6683/(2023年2月13日閲覧)
作家名 | : | 森村泰昌/Morimura Yasumasa(1951-) |
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出身/在住 | : | 日本 |
制作年 | : | 2017-2018 |
素材 | : | Cプリント、透明メディウム |
サイズ | : | 210×300 cm |
森村泰昌は、ゴッホの自画像に扮したセルフポートレート写真《肖像(ファン・ゴッホ)》(1985)など、自らが美術史上の名画の一部となる作品群を手がけてきた。絵画史において、「自画像」は画家が自身の主体性と自己の内面世界を探求する内省的なものとして発展した。森村が手作りの衣装をまといながら西洋の古典絵画に入り込むことは、異国が定めた美の規範をなぞることでしか「私」という存在を表すことができなかった、近代の日本人作家の苦悩を自ら受け継いでいると言える。しかし同時に、森村はさまざまな姿に扮した日本人男性を異物として絵に挿入することで、西洋絵画の固定観念を解体し、その背後に潜むジェンダーや人種などをめぐる物語を明るみに出すのだ。1988年に、ベネチア・ビエンナーレの「アぺルト」部門に参加。その後、国内外の美術館で多くの個展を行っている。
森村の《肖像(双子)》と、その約30年後に制作された《モデルヌ・オランピア2018》は、マネの代表作《オランピア》(1863)を主題とした写真作品。マネは《オランピア》で、ヌードの女神を描くべきところに裸の娼婦を据えることで、芸術の名のもとに女性の身体を欲望の対象として客体化する男性の眼差しを暴いた。森村は、この性差間の問題を人種間の問題へと転換するために自身の「男性の体」を露にしたままベッドに居座り、西洋の眼差しによってしばしば女性的とみなされてきた東洋人男性の姿を表している。また、裸婦の側にいる黒人女性的や白人男性もまた森村であり、眼差しの力学に白人と黒人の人種関係も内在していること示している。つまり、この自画像が表現しているのは、自己の精神を反映した「私」ではなく、複雑に絡み合う文明間の衝突に巻き込まれた日本人としての「私」なのだ。このように森村は絵画の名作に自らの身体を挿入することで積極的な読み直しをはかる。この批評的な態度は「当然の事実として歴史を受け入れることに抵抗を覚え、歴史という権威を壊してしまいたい」と考え、制作の動機を「破壊と再創造の行為の延長線上に位置しているのかもしれません」(*)という森村の言葉からも読み取れるだろう。
* 森村泰昌「My Art, My Story, My Art Historyに向けて」ShugoArtsウェブサイトhttps://shugoarts.com/news/6683/(2023年2月13日閲覧)