「建築の日本展」関連ラーニング・プログラム「《待庵》でお茶を」 第1回を開催しました
2018.8.22(水)
2018年7月10日の閉館後、「建築の日本展」関連プログラムとして、「《待庵》でお茶を」 第1回を開催しました。本展では、千利休作とされ、現存する茶室建築としては日本最古の国宝《待庵》を、眼下に東京を望む展示室に原寸大で再現しています。この空間を使って、東京の夜景とともにお茶を学び楽しむプログラムに25人の方が参加しました。
最初に、森美術館建築・デザインプログラムマネジャーの前田尚武が、本展の概要と《待庵》の建築としての魅力などについて話しました。森美術館ではこれまでに「ル・コルビュジエ展」(2007年)、「メタボリズムと未来都市展」(2011年)などを開催してきましたが、実物を展示することができない「建築」の展覧会では図面や模型、関連資料だけではなく、来館者が原寸大の空間を体感できるような工夫を凝らしてきたことを伝えました。
今回の《待庵》再現展示では新たな挑戦として、伝統的な技能工芸を受け継ぐ人材を育成するものつくり大学との連携に取り組みました。国内に再建されているいくつかの《待庵》をリサーチし、素材選びから、和釘を鉄板から切り出す丁寧な作業に至るまで、関わった人たちの周到な準備と実践の成果であることなどが、ユーモアのあるエピソードと共に披露されました。
《待庵》は、本展の中で日本建築の特質である数寄屋造の始源のひとつとして展示されています。寸法体系や技巧に優れた古来の木造建築に対して、千利休はより自然へと向かう茶の湯の思想(注1)を提案し、体現した茶室が《待庵》でした。それは一つの源流となり、のちに数寄屋建築の形式を生み、私たちが親しむ和風建築の姿へと繋がってきたことが説明されました。
続いて、裏千家より茶道資料館副館長、今日庵文庫長の伊住禮次朗氏が、《待庵》が作られるまでの茶の湯の歴史とその後の影響や、《待庵》に見える利休の創意について解説をしました。
千利休(1522-1591)は、貿易都市として栄えた堺の商家に生まれ、茶の湯の道へ入り、織田信長や豊臣秀吉に仕え、天下一の茶の湯者と呼ばれました。堺では、にぎやかな街中において、山里の風情を創り出して茶を楽しむ市中の山居(さんきょ)という思想が誕生しており、待庵はその展開の先にある建築といえるでしょう。《待庵》の侘びの佇まいに触れ、利休より少し前の時代の茶人、珠光が、「藁屋(わらや)に名馬を繋ぎたるがよし」という言葉を残しており、「稀少で高価な道具をあえて粗相な建物の中にしつらえるという一つの美意識、不完全なものをよしとする嗜好といったものが、当時の茶の湯の中にあったのだろう」と説明されました。
旧来、茶が嗜まれた場所は縁側のある広い屋敷の部屋などであり、壁なども障子張りの明るい空間だったものを、千利休は亭主と客の座る2畳の最小限のスペースに仕立てました。
《待庵》は入口も狭く、内側は土壁のため暗く、窓からの採光も限られています。伊住氏は、利休の茶を語る上では、「闇の中に光る美意識のようなものが、宇宙といった言葉で表現されるのではないか」と述べました。
貴重なお話のあと、伊住氏には席主として参加者にお茶を呈していただきました。また、今回のために準備していただいた裏千家に伝わる貴重な道具について一つ一つ丁寧に説明をいただき、参加者も真剣に鑑賞していました。
終了後、参加者からは、「貸切りの美術館で、展覧会と美しい夜景を見ながら本格的な茶道に触れることができ、贅沢な体験でした」、「お茶をいただく体験はもちろん、建築や茶室について新たな視点を持つことができました」などのコメントがよせられました。
美術館で茶会を開催することは一つのチャレンジでしたが、長い歴史を紡いできた建築の視点から日本を再考しようとする本展の展示空間を生かし、建築のみならず、本格的な茶道にも親しんでいただける機会を持つことができ嬉しく思います。今後も、展覧会を通してさまざまな発見や学びを体験できる、当館ならではの企画を展開していきたいと考えています。
*注1 《待庵》の展示室に書かれている千利休の言葉、「終にかねを離れ、わざを忘れ、心味の無味に帰する」(南坊宗啓 利休口伝『南方録・墨引』16世紀、西山松之助校注、1986年)には、古来より受け継がれてきた日本建築のかね(設計システムやわざ・技巧)を一旦離れ、自然へと目を向けることへの示唆が込められているそうです。
文:白濱恵里子(森美術館アソシエイト・ラーニング・キュレーター)
撮影:田山達之
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