グエン・チン・ティは1973年、ベトナム、ハノイ生まれの映画監督、映像アーティストで、現在も同地を拠点に国際的に活躍しています。多様な活動を通して、ときに隠蔽され、奪われ、誤読されてきた歴史を明らかにしつつ、人々の記憶の役割を掘り下げることで、ベトナム社会におけるアーティストの役割を問い続けています。
2021年、ハン・ネフケンス財団、M+、シンガポール美術館と森美術館の共同で「ムービング・イメージ・コミッション」が創設され、最初のアーティストとしてグエン・チン・ティが選ばれました。グエンは新作《47日間、音のない》(2024年)で、小説家アーシュラ・K・ル・グィンの『世界の合言葉は森』や『幻影の都市』などいくつかのSF小説を参照しながら、人間と人間以外、イメージと音の関係を物語るフィクションを紡ぎました。作品制作の過程でアメリカ映画やベトナム映画に使われた木々や植物、空などの背景やコオロギ、鳥、水の滴る微かな音などを丹念に切り取り、同時に地域の先住民族などの楽器が奏でる音のなかから自然界の音に似たものを抽出。それらを新作インスタレーションにおける映像やサウンドトラックで前景化しました。彼女はさらにベトナム中央高原で死者を祀る儀式に人々が集まるなか、ジェイライ村の村民たちが人間の眼を持たない男について語る映像も撮影し、作品に編み込んでいます。
複数のスクリーンとサウンドが同期する映像インスタレーションをグエンは1960年代に考案された「拡張されたシネマ」という言葉で呼び表し、スクリーンの映像、ストーリーテリングと鑑賞者という従来の映画体験に新たな挑戦を試みています。特定のストーリーが無く、映画の背景だった自然界の風景や生き物から発せられる音がインスタレーションのなかで融合し、鑑賞者はあたかも深い森のなかを歩いているような美しい空間を体験します。そこでは植民地化の歴史、気候危機、動植物の命への意識、アニミズムと近代宗教などに関わる複数のストーリーが併走しています。
タイトルの《47日間、音のない》は、フランスの作家で映画監督のクリス・マルケルの代表作「サン・ソレイユ」を意識させる一方で、実際にはハリウッド映画「地獄の黙示録」が撮影されたフィリピンの河川から中央ベトナムの河川へ徒歩で移動した場合にかかる時間を示しています。多くのベトナム映画が風景の類似したフィリピンで撮影されていることもあり、コロナ禍中にインターネットで調べたその時間は国境を越えられない時期の非現実的な距離感と親近感の双方を想像させるものでもあるでしょう。
※《47日間、音のない》はハン・ネフケンス財団、森美術館、M+(香港)、シンガポール美術館による共同コミッション作品です。
グエン・チン・ティ
グエン・チン・ティは映像作家、アーティストとしてハノイを拠点に活動する。映画、ドキュメンタリー、ビデオアート、インスタレーション、パフォーマンスの境界を越え、歴史、記憶、エコロジー、表象、未知なるものなどに関心を寄せてきた。現在は音やそれを聞くことの可能性、イメージ、音、空間の複雑な関わり合いなどを探求している。近年の主な展覧会に、アルテス・ムンディ10(ウェールズ)、タイランド・ビエンナーレ2023、ドクメンタ15、ミネアポリス美術館、第9回現代美術アジアパシフィック・トリエンナーレ、第21回シドニー・ビエンナーレ、第13回リヨン現代美術ビエンナーレでのインスタレーションがあり、2024年には第60回ヴェネチア・ビエンナーレに参加する。2009年、ハノイにドキュメンタリー映画と映像の、独立したメディアセンターであるハノイDOCLABを設立。