1887年、スイスで誕生したル・コルビュジエは、1917年にスイスからパリに居を移し、まず絵画の制作に熱意を傾けた。
このセクションでは、主に初期のピュリズム期の絵画作品を展示している。中でも油彩画「暖炉」(1918年)には、暖炉の上に白い矩形の物体が描かれており、これこそ彼の抱いていた近代建築の原イメージだったのではないかと思わせる点で、きわめて興味深い。
建築資料として一点のみ展示された《ロンシャンの礼拝堂》模型は、1965年にル・コルビュジエが、当時の文化相アンドレ・マルローに寄贈した貴重な模型である。この建築は、きわめて彫刻的な形態をもち、多様な色彩も使われている点で、彫刻・絵画に近いとも言えるだろう。
展示室内には、さらに彫刻や1911年の東方への旅の際に残した多数の素描にも展示している。素描はこのころから、彼の主要な記録、認識、表現の手段となった。展示室後半には、パリのナンジュセール・エ・コリ通りに現存するル・コルビュジエのアトリエ空間を再現した。内部には、彼の使用していた遺品を展示し、アーティストとしてのル・コルビュジエの姿を描いている。
彼の人生はアートと建築に同等に捧げられていた。アートは彼の人生の一部であったといえるだろう。
ル・コルビュジエの初期の思想を最もよく表わしているのは、1920年10月から1924年末まで彼が編集に関わり、全28刊が刊行された『レスプリ・ヌーボー』誌である。またこの雑誌に執筆するために作られたル・コルビュジエという仮名(本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ)が世に広がるきっかけともなった。
1926年にドイツのヴァイセンホフ・ジードルンクで2棟の住宅を建設した。このとき近代建築の5原則、「ピロティ」「屋上庭園」「自由な平面」「水平に連続する窓」「自由な 正面(ファサード)」を集約し発表した。これらの原理は、まず住宅に適用されたことから見ても、住宅が彼の建築の原点であったと言ってもよいだろう。最小限の要素で建築を成立させるシステムとして考案されたドミノ住宅、モノル型住宅、シトロアン型住宅等は、ル・コルビュジエが考案した近代住宅建築の基本型である。
ル・コルビュジエは、所員であったシャーロット・ペリアンと多数の家具を開発したが、それは家具もまた近代的な生活を総合的に具現化する、重要な表現の領域であったからだろう。彼は車もデザインしたが、それも彼にとっては、移動する最小限住宅であった。
ピエール・ジャンヌレと共に構想された《国際連盟本部の提案》(1927年)には、ル・コルビュジエが主張する近代建築の諸理念が結晶しており、このような新しい建築理念がいかに国際的な大型プロジェクトにおいても評価されるかを問う機会であった。しかし、提案は審査後に却下され、国際的なスキャンダルになった。その翌年提案された世界文化センター《ムンダネウム》(1929年)は螺旋状をしており、時間の経過とともに増大する展示品に即して、拡張して行くことができるところが特徴である。この構想が、後のアーメダバードやチャンディガールの美術館に実現し、その後日本の《国立西洋美術館》(1955〜59年)の基本案にまでつながっていく。
さらに1932年にソビエト政府から依頼された《ソビエトパレス》(1930−32,34年)は、両翼に巨大なホールを持ち、多数の機能を組み合わせた複合施設で、この施設でル・コルビュジエは本格的な大型公共施設の研究を行なった。
いずれの提案も実現はしなかったが、彼が住宅という個人的な空間の設計に留まらず、より広く、より公的なプロジェクトを通して、新たな近代社会の構築という大きな課題を探求する機会を生み出した。
このセクションでは、主に後期の絵画と彫刻を紹介している。1928年以後、ル・コルビュジエはピュリズムに関心を示さなくなり、絵画はより自由に、より情熱的になっていく。主題には、女性、雄牛、イコン(聖像)などが登場するようになり、その描き方は抽象的で象徴性が高い。また、貝殻やガラス瓶、石ころ、骨、松ぽっくり、ロープなどの多様で複雑な形態をもったものを繰り返し描くようになる。色彩は明るくなり、描線は手の勢い、筆の動きを残して、人間味を増す。
また、彫刻は、絵画のモチーフを立体にする場合も多く、ある種の平面性と正面性を保っている。一部の彫刻は、額縁のようなフレームを持ち、あるいは着彩されて絵画との親近性を見せている。一方で、立体としての量塊性、空間の入り組んだ構造は建築との関連を思わせる。
ル・コルビュジエはタペストリーも多数制作したが、彼はそれをインテリアの装飾ではなく、移動する壁画と考えていた。その色調はしばしば絵画よりも鮮烈で、赤や黒が多用された。
デッサン、絵画、彫刻、タペストリー、エナメル画、建築、都市計画というそれぞれの表現はル・コルビュジエにとって、すべて、一つの同じ事柄を様々な形で創造的に表現した物に過ぎないのであった。
1952年に、ル・コルビュジエは、集合住宅《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》を竣工させた。この大型集合住宅は、彼の主張してきた建築、都市、人間の集団生活のあり方についての理念を統合したもので、彼の残した建築物のなかでも最も重要なもののひとつとなった。
ユニテは、巨大な直方体の集合住宅が、ピロティによって支えられている。垂直に発展する田園都市というル・コルビュジエの理念を適用し、中間部分には、店舗やホテル、屋上には保育園やプール、ジョギング用トラックが設置、各所にコルビュジエらしいデザインが統合されている。
このセクションでは、ユニテの一戸分の住居空間を、2階建ての実物大模型として再現し、中に実際にユニテで使われていたオリジナルのキッチンセットを展示、2階にはバスルーム等を再現している。この住居空間は、生活のために必要な最小限のスケールで作られており、この模型は、その最小限の空間を体感してもらうためのものである。
こうしたスケールの基準になったのが、ル・コルビュジエの考えたモデュロールという尺度である。彼は人間の身体寸法を基準として開発されたこのシステムを、ユニテに適用した。この思想を詩的かつ絵画的に表現したのが「直角の詩」という版画のシリーズである。
彼の都市計画は過密化する近代都市に、いかに人間的な環境を構築するかという課題に対する彼なりの一つの回答であった。そして、1935年に出版した『輝ける都市』はル・コルビュジエの都市計画思想の原点となり、「太陽、空気、緑」がキーワードとなった。また、現代の都市は、住居、労働、休息、交通というそれぞれの機能がバランスを保つことで、快適な生活を営むことができるという考えから、彼の関心は住宅建築から公共的な空間、そして都市全体の計画へと広がっていった。
このセクションでは、多様な都市計画のなかから、《アルジェの都市計画》ほか、《ヴォワザン計画》《パリ都市計画》《300万人の現代都市》などの提案を、資料および解説映像で紹介する。
ル・コルビュジエは内外の国や地方自治体にさまざまな提案をしたが、その都市計画はしばしば大都市の一部を再開発するもので、大規模なものとしてはチャンディガールの計画以外は実現することはなかった。また母国フランスで彼に大規模な公共建築群の依頼が来た直後の1965年に、彼は世を去り、これを実現する機会は永久に失われた。
ル・コルビュジエは、1950年にインドの首相ネルーから、パンジャブ州の州都をチャンディガールに建設することを依頼された。長いあいだ、都市の建設を夢見ていた彼は、この時から壮大な都市の建設に関わることになる。
街はグリッド状に構成され、随所に緑がおかれ、また7段階の道路システムを持つことになった。彼が実際に携わった建築物は、州政府の中心機能を収容する《議事堂》、《合同庁舎》、《高等裁判所》からなる「キャピタル」である。同時に設計された《総督官邸》だけは建設されなかった。そして、《高等裁判所》の正面近くには、巨大な手のモニュメントが立っている。手は、彼が長年温めてきた主題で、これを彼はチャンディガールの象徴としてもっとも重要な場所に設置した。手が象徴するのは、人間の悠久の営為である。
本展のために、チャンディガール中心部「キャピタル」の大型模型を制作し、これを展示した。ル・コルビュジエが重視した植栽に関しても、樹木の種類が大まかにわかるよう、模型の樹木を色分けして表現した。キャピタルの建築物には随所に壁画、タペストリー、色壁が用いられ、空間を彩っている。彼が理想とした都市は、絵画が建築と融合していなければならなかったことがわかるだろう。
ル・コルビュジエは、生涯の内に二つの宗教建築を建設したが、死後41年経って三つ目の作品が完成した。
ル・コルビュジエの作品のなかでも最もよく知られているものの一つが、《ロンシャンの礼拝堂》であろう。曲線を描く巨大な屋根が張り出した、この印象的な建築は、多くの人たちに驚きをもって迎えられた。建築自体が示す彫塑的な美しさに加え、塗装した鉄板(ホーローアートパネル)を使ったドアや多彩な色遣いのステンド・ガラスによる建築と美術の融合は、この建築を20世紀最高の宗教建築にしている。
二つ目の宗教建築は、《ラ・トゥーレットの修道院》である。大規模なドミニコ会の修道院で、3本の円柱が示す入り口には礼拝堂があり、内部は赤、青、黄の3原色がカラフルに壁や円柱を彩る。
三つ目は、《サン・ピエール教会》(フィルミニ)である。ル・コルビュジエの死後、助手のジョゼ・オーブレリーによって監修され、2006年に完成したもので、コンクリートの巨大なピラミッド型の屋根が特徴的な作品である。
これらの宗教建築は、いずれも、ル・コルビュジエが「音響的形態」と呼んだリズミカルな空間の構成、周囲の環境と響きあう建築的プロムナードを体現した建築と言えるだろう。
ル・コルビュジエはインドでチャンディガールの都市計画に関わるのと同時に、アーメダバードで住宅を2軒《サラバイ夫人邸とショーダン邸》、《繊維業者協会会館》、そして美術館を設計した。また、ル・コルビュジエは、さらに活動の場を拡げ、アメリカ合衆国で《カーペンター視覚芸術センター》を、日本では《国立西洋美術館》を設計した。《カーペンター視覚芸術センター》は、ケンブリッジのハーバード大学芸術学部の視覚芸術センターで、アメリカにおける唯一の作品となった。
《国立西洋美術館》は、日本で唯一のル・コルビュジエ作品であり、ル・コルビュジエの事務所で働いていた前川國男、坂倉準三、吉阪隆生が深く関わったことでも知られている。《国立西洋美術館》のプランは、1929年の《ムンダネウム》に見られた螺旋状の導線が用いられ、将来所蔵品の増大とともに拡大することが出来る構造となっていた。また、周囲には複数の建築が立ち並び、複合施設の性格を帯びていたが、この全体案はついに実現しなかった。
ル・コルビュジエは、後半フランスから外へと活動の場を広げ、ますます多くの可能性に取り組もうとしたが、そのために彼に残されていた時間は十分ではなかった。
1951年にル・コルビュジエが、妻イヴォンヌのために南フランスに建てた小さな小屋は、「カバノン」あるいは、「カップマルタンの小屋」と呼ばれている。この隣には、二人が毎夏、休暇で訪れていた「ひとで軒」があり、小屋はそのレストランに寄り添うように建てられている。
小屋はたった3.66メートル四方の小さな物(およそ8畳間)で、中にあるのは、二つのベッド、小さな仕事机、最小限のキャビネット、トイレと洗面台である。食事は隣接する「ひとで軒」で取っていたので、キッチンが必要なかったとしても、非常に小さな空間だったことがわかるであろう。
ル・コルビュジエは、様々な住宅を実験し、巨大な集合住宅や公共建築に挑戦し、都市を構想した。そして建築とは何かを問い続け、近代における人間の理想の環境を生み出そうとした。その彼が、最後に到達した最小限の住まいが、この小屋だったということは、象徴的で意味深い。彼は、「おそらく、この家で生涯を終えることになるだろう」と語ったことがあるが、この言葉通り、1965年の夏、この小屋から海へ向かったル・コルビュジエは、ついに帰ることはなかった。享年77歳であった。